【解説レビュー】『この世界の片隅に』は、すべての人に観てほしい傑作

こうの史代による漫画作品を原作としたアニメ映画『この世界の片隅に』の躍進が止まらない。

クラウドファウンディングにより資金を集め、片渕須直監督によってつくられたこの作品は、連日の超満員や、実際に観た観客の熱量の高さで話題になっている。テアトル新宿では、1週間の興行収入がこの10年間での歴代1位の記録を達成したそうだが、まだまだこの盛り上がりは止みそうにない。

『この世界の片隅に』がこれほどまでに観る者を惹きつけるのはなぜなのだろうか?

あらすじ

18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。
良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。

夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。

ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。
またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。

1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくる――。

出典:「この世界の片隅に」公式サイト

徹底した主観表現と、”描かない”ことで炙り出す現実

観客に許されているのは”すずの主観”の共有のみ

『この世界の片隅に』で最も特徴的なのは、あくまでもこれが主人公すずの”主観”からしか描かれていないという点ではないだろうか。

ボーっとしていて、不器用で、天然な少女すず。高圧的な兄、自分の意志が全く介在しない嫁入り、結婚初日から全面的に押し付けられる家事、とにかく強烈な小姑……序盤から、すずを取り巻く環境は過酷としかいいようがない。しかし、その過酷さが強調して描かれることはない。すずは哀しい顔も苦しい顔もしないし、基本的にいつでもどこでも少し笑って明るく乗り切る。では、すずは朝ドラ主人公のような、「どのような苦境に会っても明るく前向きに生きる」女性なのだろうか?

違う。

すずは確実にストレスを感じている。それは、ある事象により明らかになる。しかし、そんなすずのストレスに気づいて不安な顔を見せる夫の描写もなければ、炊事中に倒れたすずを看病する近所の人も出てこない。観客は、ストレスに目を瞑り続けるすずの視点から逃れることはできない。

すずは、絵を描くこと、空想することでストレスを発散するタイプだ。だから、すずと視点を共有している観客は、画面に映っているものが現実なのか空想なのかが分からない。最後に「あれは空想でした。現実はこうでした」という種明かしも一切ない。過酷な現実に苦しむ自分を押し殺して、なんとか生きている夢見がちな女性。ツラく厳しく不便な状況も楽しく乗り切ろうと苦心する女性。いつのまにか、そんなすずと、観客の感覚とが一体化してしまう。あの時代に、呉という土地で、心が壊れそうになるギリギリのところでふんばって生きていたすずという女性の人生の2年間を、完全に追体験しているような感覚。現実も、空想も、敢えて語られない現実も。すずの心を保つために、すずの精神が構築した世界が、そこにある。あの時代に1人の人間が「日常を生きる」ということを、とことんリアルに描いているのだ。

最初から最後まで、説明も説教もしない

『この世界の片隅に』では、説明されていないことが山ほどある。原作を読めば分かるのかもしれないというものもあるが、あくまでもすずの主観からしか語られないため、”すずにとっては既知のこと”(親戚や周囲の人たちのことなど)や、”すずに無関係なこと”に関しては、説明もなければ回収もないという点が多い。だから、観客は想像や推測で状況を補完していく必要がある。もちろんそれは同時に、解釈や想像の余地が無限に与えられているということでもある。”分からない”という余地は、あの頃の日本に、広島に、呉に生きていた人間すべての存在にまで思いを馳せるきっかけにもなる。

また、『この世界の片隅に』は説教をしない。「戦争が憎い」「アメリカが憎い」と涙を流しながら拳を地面に叩きつける兵隊さんが出てきたりしない。悲惨な展開はあるものの、ねっとり長々と描いたりしない。あくまでも日々の時間の流れの中で、淡々と描写されていく。戦争が確かにあり、原爆は確かに落とされ、日本は確かに負けた。そして、それでも人々は生きた。その淡々とした描写の説得力たるや。他の戦争映画では味わったことのない感覚だった。

すずに違う日常を過ごさせてあげたかった

この映画の冒頭には、まだ子供のすずが登場する。クリスマスシーズンで賑わう街が描かれ、バックには「ああベツレヘムよ」の調べが鳴り響く。

すずが生まれたとき、天も星もその誕生を祝福しただろう。未来は明るいものになったはずだろう。ボーっとして抜けているところのあるすずは、小さな失敗を繰り返しながら、ささやかな幸せを手にしていたことだろう。すずの目に映る世界は本当に美しい。その美しい世界を描き出す才能を持つすずは、どんなに素晴らしい表現者になったことだろう。

しかし、無情にも昭20年8月まで提示され続ける月日の表示が、そうはならないすずの未来を暗示する。

『この世界の片隅に』で描かれるすずの日常がほのぼのとしたものであればあるほど、すずを演じるのんの声が柔らかく、少し子供っぽく響くほど、クスリと笑ってしまうシーンが重ねられるほど、哀しくなる。無垢な少女が、これほどのストレスに耐える必要など絶対にないはずなのに。これほどまでに過酷な状況を、笑顔で乗り切る必要などないはずなのに。ボーっとしたすずのまま大人にしてあげたかった。この世界の美しさを、思う存分描かせてあげたかった。そう思って、とめどなく涙が出てきた。

家父長制が憎い、当時の女性の弱い立場が憎い、そしてなによりも戦争が憎い。

間違いなくいえることは、『この世界の片隅に』は紛れもない傑作であり、今まで観た戦争映画の中で最も穏やかで、最も哀しく、最も心を揺さぶられ、最も戦争を憎悪した作品だった、ということだ。すべての人に観てもらいたいと、心から願う。

About the author

ホラー以外はなんでも観る分析好きです。元イベントプロデューサー(ミュージカル・美術展など)。

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