『マグニフィセント・セブン』に受け継がれなかった、黒澤明『七人の侍』の魂

現在公開中のアントワン・フークア監督『マグニフィセント・セブン』この記事では生意気にもこの映画に対して苦言めいたことを書き連ねます。

しかし最初にお断りしておきますが、筆者は、この『マグニフィセント・セブン』が仮に元ネタなどない、新しく書き下ろされた脚本による一本の新作西部劇映画だったとしたならば、アクションエンターテインメント作品として平均を遥かに上回る出来であり、万人に勧めることのできるタイプの作品であると評価しております。よって、リメイク元であるジョン・スタージェス監督『荒野の七人』(1960)や、さらにその元となった黒澤明監督『七人の侍』(1953)をご覧になったことがなく、これからも鑑賞する予定のない方は、ぜひ読み飛ばしてください。楽しい作品を鑑賞したという余韻にここでわざわざ水を差すことないですし、そもそも映画なんて「こうでなくちゃいけない」なんてルールはありません。これから書くことは、あくまで筆者の個人的な「こうだったら僕はもっと楽しめた」という程度のものです。

【注意】

この記事には、映画『マグニフィセント・セブン』に関するネタバレ内容が含まれています。

前述した通り、今作『マグニフィセント・セブン』は筆者にとっても概ね面白いエンタメ作品ではありました。しかし、鑑賞中序盤から「あること」が気になり出し、物語が大団円を迎えエンディングロールが流れる際には、その懸念が的中してしまったので若干釈然としない心境で劇場を後にすることになってしまったのです。
その「あること」とは、今作においての主人公であるデンゼル・ワシントン演じる賞金稼ぎサムには、個人的な「戦う理由がちゃんとあること」です。もっとはっきり言うと、サムが「私怨を晴らす復讐のための戦い」をしたってところに、引っかかりを覚えてしまいました。この設定は、この映画のリメイクの大元である黒澤明監督『七人の侍』が作品を通して言いたかったこと、そして世界中の観客に提示して見せたものからは、真逆と言っていいほど離れてしまっていると感じるからです。

『七人の侍』が持っていた逞しさ

七人の侍

http://www.imdb.com/title/tt0047478/mediaviewer/rm4170088704

この場で日本映画が誇る不朽の名作『七人の侍』に対して筆者の拙い解説や映画評を長々と打つつもりはありませんが、かいつまんで持論を申し上げると、『七人の侍』は何がそんなに他の時代劇と違ったのか。もちろん「チームアップ物の雛形を作った」という要素も大きいですが、何より、それまでのアクションを主体とした時代劇映画とは異なり、「勧善懲悪の物語ではなかった」という点が大きかったのだろうと考えます。
確かに農村に襲い来る災厄がごとき「野伏」の集団は邪悪に見えます。しかし彼らはそれしか生計を立てる手段がなかったわけで、平定の世において「兵器」である「武士」の居場所などどこにもないという、「時代の被害者」でもあるわけです。そしてか弱き農民を守るため立ち上がる「七人の侍」。彼らは食い詰めた浪人という「野伏」と表裏一体の存在でありながら、ただ一つ「武士道」という現在では失われた「魂」をもつがゆえに「無私」の戦いに赴くのです。
侍たちの自己犠牲、死闘の末に農村には平和が訪れます。しかし「英雄」たる彼らを待っていたのは、守ったはずの農民から受ける「厄介者」という視線。チームのリーダー官兵衛は「また負け戦だった」と呟き、村を去ります。人によっては苦く感じるこのラストは、いわゆるヒーローものとは異なり、いわゆる「英雄」に讃歌を与えず、土に生きる農民、市井の人々のしたたかさ、逞しさこそ「強さ」であり、美しさなのではないかと問いかけてくるのです。

『七人の侍』のリメイク作『荒野の七人』(1960)は時間が短縮されたせいもあってか、前段の要素が少し薄まった感はありました。しかし、悪役たるカルベラ一味も生活に困窮する集団であるということ、七人のガンマンに私怨はなく、ただ『義侠心』ゆえに戦いに挑むところ、そして何よりエンディング。長老の「農民が勝った。農民は大地と共に永遠に生きていける。あなた達は大地の上を吹きすぎていく風だ。イナゴを吹き飛ばし、去っていく」という『七人の侍』をわかりやすく解説するようなセリフからも、『荒野の七人』が『七人の侍』の精神性をちゃんと受け継いでいることがわかります。そもそも「名作」リメイク映画の存在意義はどう考えればいいでしょうか。先人が考えた素晴らしいプロットを取捨選択の上使って、完全な自分流の新作をやってしまうのであれば、同じタイトルを名乗る必要はないはずです。筆者としては、こと「名作」リメイクにおいては、ディテールや話運びはいくらでも変更して構いませんが、テーマそのものを変更してはならないのではないかと考えるわけです。

『マグニフィセント・セブン』に受け継がれなかったもの

翻って今回の『マグニフィセント・セブン』はどうだったでしょう。まず悪役たるヴォーグ。彼は私利私欲のために他人を搾取し、蹂躙しています。そこに時代の趨勢もやむにやまれぬ事情も介在しません。ただの「悪」です。そして対する「マグニフィセント・セブン」のリーダー、デンゼル・ワシントン演じるサム。彼もまたラスト付近で明かされる(というよりもっと前から察しがつきますが)事情により、ヴォーグ個人を恨んでいたことが判ります。いわば復讐、「私怨」の戦いです。
問題として、これでは話が小さくなってしまっています。アントワン・フークワ監督や脚本家が戦いをエモーショナルに盛り上げるためにこういう設定にしたことは理解できますが。しかし、そうするとサムは「私怨」を晴らすために、それを内緒にして勝ち目のない戦いに仲間を募っていたことになりますよね?これでは自分の事情の為に、他人の人生を蔑ろにする敵ヴォーグと、精神構造的に近いと言われても仕方ありません。『七人の侍』や『荒野の七人』で描かれた「自己犠牲の矜持」とは遠く異なるものです。(強いて言えば仲間たちはそういった精神性だったかもしれませんが、サムの話がメインなので印象が薄いです)

また、物語の帰着も、生き残ったガンマンがさっさと立ち去るところはリメイク元二作と一緒ですが、彼らは戦いの後、市井の人々の賞賛を浴びます。受け入れられてるんだから、もう少しゆっくりしていけば良いのではないでしょうか。そして、ここに至ってこの『マグニフィセント・セブン』は単純な「勧善懲悪」の物語として完全に円環の輪が閉じてしまうわけです。つまり、あくまで私の個人的見解では、この『マグニフィセント・セブン』は、「チームアップもの」としての要素や、人里はなれた小さい箱庭的な町が舞台というエッセンスのみがリメイク元より踏襲されており、前二作が受け継いだ作品通じてのテーマは残念ながら反映されていないと感じる作品でした。

アメコミ原作映画や続編映画の興隆が目立ち、ハリウッドでも「オリジナル脚本」の企画が通りづらくなっているそうです。これからも名作のリメイク映画は作られつづけるのでしょう。それが潮流ならば仕方ありませんし、新しい世代に鑑賞しやすい形でこういった作品が紹介されるメリットも大きいとは思います。ですが、こういった作品をリメイクするのであれば、その作品が最も大事にしているであろうテーマは、しっかり継承して、正しく次代に繋げてほしい、そんな風に思うアラフォー映画ファンの独り言でございました。

Eyecatch Image:http://www.imdb.com/title/tt2404435/mediaviewer/rm2957712640
http://www.imdb.com/title/tt0047478/mediaviewer/rm4170088704

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About the author

1977年生まれ。週刊少年ジャンプ脳のクリーチャー愛好家。玩具コレクター。エンドレスダイエッター。「意識低い系」の文章を信条としています。

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